惹きつけられる江戸の漂流譚
長崎の出島など、ごく限られた港でしか西洋文化に触れることができなかった鎖国下の江戸時代。悪天候による無理な航海によって大航海へと巻き込まれ、大海原を漂流することになってしまった船乗り(商人や漁師)たちが数多くいました。
一時期、そんな彼らの壮絶な冒険を題材にした物語を夢中で読み漁っていました。
なぜこれほどまでに惹きつけられるのか。
それは単に歴史や伝記としての面白さがあるだけでなく、「どのような風と海流によって漂流したのか」「流れ着いた未知の土地で、どんな気象環境を生き抜いたのか」という視点を重ねることで、自然の猛威をダイレクトに受け止めていた当時の人々の姿が見えてくるからです。
9年の歳月をかけた奇跡の生還|大黒屋光太夫の物語
漂流譚の第一弾としてご紹介したいのが、井上靖の小説『おろしや国酔夢譚』です。
舞台は徳川第10代将軍・家治の時代である1782年。江戸へ向かう途中で激しい嵐に遭い、アリューシャン列島の小島へと漂着した大黒屋光太夫の足跡を描いた作品です。
船頭であった光太夫は、極寒のシベリアを9年もの歳月をかけて西へ進み、時の女帝エカチェリーナ2世への謁見を果たして、ついに日本への帰国許可と支援を勝ち取りました。
出発時には17人いた乗組員たちでしたが、厳しい寒さや病で命を落とす者、先の見えない不安からロシア残留を選ぶ者と次第に減っていき、最終的に日本の土を踏むことができたのは光太夫と併せてわずか2人でした。
一介の船頭が女帝に謁見できた理由
この本は実際の記録をベースに執筆されています。その記録の緻密さこそが、「一人の船頭がなぜ都まで辿り着き、女帝への謁見まで許されたのか」という問いに対する、確かな理由となっています。
光太夫は江戸へ向かう「神昌丸」の船頭でした。優れた思慮と高い判断力を備えた彼は、極限の漂流地で生き延びるための術を示し、絶望に暮れる仲間たちを導き続けます。
さらに彼が漂着初期から9年間にわたって書き続けた日記は、単なる記録を超えて、ロシア人たちに光太夫を「教養と品位を備えた人物」として認めさせる大きな要因となりました。この信頼が博物学者のキリル・ラックスマンとの運命的な出会いを生み、女帝への謁見へとつながっていくのです。
気象と地図で辿る、光太夫たちの足跡
本ブログは「気象」をテーマとしていますので、光太夫たちがどのような海流に流され、どのような気候と戦ったのか、地図でその足跡を辿ってみます。

【海】黒潮から北太平洋海流へ
1782年12月、伊勢の白子港を出航した神昌丸は駿河沖で猛烈な嵐に遭遇。黒潮に乗って太平洋沖へと押し流され、そのまま北太平洋海流と親潮系の環流に乗って北東へ漂流を続けました。約7か月におよぶ漂流の末、1783年7月下旬、当時のロシア領・アリューシャン列島のアムチトカ島へ漂着します。
【陸】極寒のシベリアと季節の移ろい
アムチトカ島では野菜が摂取できず、壊血病によって多くの仲間が命を落としました。また、内陸部では厳しい冬と、それに続く春の訪れへの爆発的な歓喜など、シベリア特有の苛酷な気候が彼らの旅には常に付きまといます。それでも光太夫はひとりイルクーツクを発ち、一縷の望みをかけてサンクトペテルブルクまで赴くのでした。
光太夫の聡明さと行動力に胸を打たれるとともに、丁寧に描かれた当時の歴史背景も見どころの作品です。
おろしや国酔夢譚 (文春文庫) [ 井上 靖 ]

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